レーマーが史上初めて光速度を測定した方法を説明します。その内容を要約した論文(日本語訳)を参考にしながらお読み下さい。
木星の衛星は木星のまわりを回っているのですが、地球から見て木星の裏側に隠れること[“食”と言う]が周期的に起こる。しかし、その食が起こる周期が時と共に少しずつ変動することが解ってきた。レーマーは長期間にわたって食が起こる時刻を観測して、その変動の原因をつきとめ、その変動量から光の速度を見積もった。
なぜレーマーはその様な単調な観測の仕事に関わり、また継続したのでしょうか。それには理由があります。当時拡大する新世界との貿易、航海の増大のために、ヨーロッパの国々は遠洋航海中の船の正確な位置を知ることや、新世界の正確な地図を必要としました。
そのときの問題点を、未開地の地図を作る場合で説明する。未開地の緯度はそこで観測される北極星の水平面からの高度角を測定すれば簡単に求まります。しかし、経度を知るのは簡単ではありません。それを知るには正確な時刻を知ることが必要だからです。未開地の観測点に於いて、正確なヨーロッパ時(例えばフランスのパリ時刻)が解れば、そのとき天頂を通過する星を観測することで、その地点とヨーロッパ(例えばフランスのパリ)との経度差を知ることができます。なぜならパリ時刻の同じ時間にパリの天頂を通過するのはどの星座のどの星かは正確にわかっているからです。
しかし、別稿で説明したように当時の時計[補足説明1]の精度は良くありませんでした。そのためヨーロッパを出発するときにいくら正確に時を合わせていても地図を作る目的の場所に移動するまでに時計が示す時刻は狂ってしまい正確なパリ時刻を知ることはできなかったのです。さらに、重力加速度の大きさは場所によって変化します。そのため当時使われていた振り子時計では、時刻そのものも狂って行きます[補足説明2]。
そのとき、毎日決まった時刻に起こる天体現象があれぱ、洋上の航海者や探検中の地理学者の時計をパリの時刻にあわせることができます。フランスの王立科学学士院は、その天体現象として、ガリレオが1610年に発見した木星の四つの衛星が周期的に木星の影に隠れる現象(食)が利用できると考え、実際に利用していました。地球の直径は木星と地球間の距離に比べてはるかに小さいので、木星の食現象は地球上の何処で観測しても同じ時刻に起こるからです。
[補足説明1]
マゼランの世界一周航海は1519年9月20日〜1522年9月6日ですから、1600年代はまさに大航海時代でした。
ところで、振り子の等時性を利用して、実用に耐える振り子時計を作ったのはホイヘンスで1657年のことです。またひげゼンマイの等時性がフックにより発見(1654年)されて、これを用いた懐中時計をホイヘンスが作ったのは1675年頃のことです。
航海に於いて正確な計時を可能にしたハリソンの“クロノメーター”が発明・実用化されるのは、1735〜1761年の頃です。ハリソンは合わせて5個のクロノメーターを制作したが、中でも1759年のH4型に至って懐中時計に似た形の実用性の高いものとなった。(当時の時計が狂う主な原因は、温度変化により、テンプゼンマイの長さが変わり、さらに弾性定数自体が変化することと、テンプの体積が膨張して慣性モーメントが変化することでした。ハリソンはバイメタルの温度による屈曲を用いてテンプゼンマイの実質的な長さを調整して、温度変化による影響を打ち消すことに成功したのです。山口隆二著「時計」岩波新書(1956年刊)参照)
ちなみに、キャプテンクックの第1回航海(金星の日面通過観測)が1768〜1771年、第2回が1772〜1775年、第三回が1776〜1780年です。第1回航海に於いて、金星日面通過の観測地(タヒチ島に設けた)の経度を知る方法として“木星衛星の食による方法”が用いられたようですが、クックは二度目の航海からラーカム・ケンドールが作ったH4型の複製クロノメータを携行し、後で述べる“月距法”と併用しながら正確な経度を測定することができた。ハリソンの“クロノメーター”については斉田博著「星を近づけた人々(上)」地人書院(1984年刊)§11の解説も興味深いのでご覧下さい。
[補足説明2]
別稿「古典天文学」3.(1)3.で説明したように、太陽系の大きさを知るには地球とどれか近くの惑星との距離を正確に知ることが必要です。そのためには地球上の離れた二点(例えばパリと南米のギアナ)から同時刻に近くの惑星(例えば火星)の方位を正確に観測して、三角測量の原理で地球-火星間の距離を求めます。もちろん火星の方位は、背景の遠くの星の位置との相対的な視差を測定することで求めます。
パリとギアナの時刻を合わせるのに木星衛星の“食”現象を利用します。これはパリから見てもギアナから見ても同時に起きるからです。そのようにして時刻を合わせた振り子時計で火星の天球図上の位置とその時間を継続して測定します。その様にしてパリとギアナの様々な時刻の火星の天球上での位置を観測します。遠征隊がフランスに帰国した後で、同時刻のパリとギアナでの火星の位置をつきあわせることで、火星までの距離を求めます。
1672年の火星はちょうど“衝”の位置にあり地球に最も接近することが解っていましたので、カッシーニは火星視差の観測のために南米ギアナのカイエーヌ島(赤道付近)に助手リシェーとマーリスを1671〜1673年に派遣します。仏領ギアナが選ばれたのは1600年代の初めからフランス人が入植しており、定期船も就航していたからです。
ギアナでの時刻の較正には、もちろん木星衛星の“食”現象の運行表が使われたのですが、そのときリシェーは、持参した振り子時計(パリで正確な時を刻むように振り子の長さが厳密に調整されていた)がギアナでは定常的に遅れる事に気付きます。1日当たり二分ずつ遅れたのです。時計が正しい時刻を示すようにするためには、3パリフィート8・3/5ラインだった振り子の長さを5/4ラインだけ短くしなければ成りませんでした。これらの結果は帰国後『カイエンヌにおける天文学、物理学の観測』として発表されます。[1パリフィート=0.3248406m、1ライン=2.255837mm]
これは直ちに、ホイヘンスやニュートンによって、遠心力の為に赤道地方の重力加速度がパリよりも小さくなるためであると説明されるのですが、実際に重力加速度の変化が観測された最初の例です。[振り子の振動周期から重力加速度を求める方法は高校物理で習う]
ちなみに、1673年にカッシーニは上記の2ヶ所で観測された火星視差を用いて計算することで、地球と太陽までの距離を1億3800万km(引用元の資料1と、資料2)と見積もっています[この値は2.(3)で用います]。
また、ニュートンは1687年に出版される『プリンキピア』の第3篇、命題19,20で、この重力の変化について詳しく説明しています。
このようなことが解ったのはまさにこの時代であったことに注意して下さい。
木星衛星の“食”現象を前節で説明した事柄に利用できることに最初に気付き、木星の衛星の位置推算表を作ることを始めたのはガリレオです。彼はオランダ連邦の援助を得て実際に観測を始めたのですが、残念なことに彼の肉体的衰えと死(1642年)によって未完の仕事となってしまいました。(ダンネマン「大自然科学史」より)
このガリレオの仕事を完成させたのがボローニャ大学で天文学を教えていたカッシーニです。彼はボローニャで木星の運行表を作り上げて1668年に『メディチ家の星に関するボローニャの推算法』として発表します。これは上記の方法による正確な経度の計算法を可能にした画期的な運行表でした。カッシーニはこの業績が認められて1669年にパリ天文台(1667年設立)に招かれます。そして、1671年から彼が亡くなる1712年までの40年間パリ天文台長の地位にとどまり様々な大発見を行います。
天文台長となったカッシーニは、ボローニャで作った木星の衛星の運行表をさらに精密なものにするためにパリでも木星衛星の観測を継続していました。そして、この仕事に協力することになったのが、天文台に新しく雇われたデンマーク人の若い天文学者であったオーレ・レーマーです。フランスの天文学者ジャン・ピカールがデンマークを訪問した際にレーマーを紹介されて、彼にパリ天文台で働くことを勧めたのです。1672年からパリ天文台で働くことになったレーマーは、木星の衛星の運行表の精度を高めるための観測に従事して、地道な観測を数年間にわたって続けます。
[補足説明1]
“木星食”を利用する前に経度を決定する方法として用いられたのは、“月食”を利用する方法と“月距(月と他天体の間の測定角度)”を利用する方法(つまり月の移動を巨大な天体時計として利用)です。そして18世紀後半になってからは“クロノメーター”を利用する方法となります。
上記の“月距法”の原理は古くから知られていたが、簡便で正確な角度測定器具である四分儀(1731年ジョン・ハドリー)や六分儀(1760年ジョン・キャンベル)が発明され、実用に耐える航海年鑑(太陽や星と月の角距離の様々な経度における数表)が整備されるのは18世紀になってからです。
この当たりの説明は
デーヴァ・ソベル著「経度への挑戦」角川文庫(2010年刊)
デレク・ハウス著「グリニッジ・タイム」東洋書林(2007年刊)の補講
石橋悠人著「経度の発見と大英帝国」三重大学出版会(2010年刊)第1章2節
が詳しい。これらはとても面白い本ですから読んでみられることを薦めます。
[補足説明2]
高橋憲一著「ガリレオの迷宮」共立出版(2006年刊)p266に“1629年11月には木星の衛星を利用した経度測定法についてスペイン政府と交渉を再開している”と書かれています。この根拠が何にもとづくものかは書かれていませんが、もしこれか本当だとすると、ガリレオはかなり早い段階で、木星衛星の運動を経度測定に利用しようとしていたことになる。
別稿で説明した当時の時計の精度から解るように、一回ごとの食が起こる周期を秒単位まで正確に測定することは困難でした。さらに当時の望遠鏡は、色消しレンズが発明(1733年)されるよりも以前のため、光の分散で滲んだ像しかえられないものであったことに注意して下さい。そのため当時の観測では、一回ごとの食周期の変動を計測するのは不可能だった[文献1.参照]。
しかし長期間観測を続ければ、地球の1年の間に衛星が何回食を起こすかは正確に数えられます。またその回数が数えられればその1年の期間をその回数で割ることで正確な食周期Tを求めることができます。その正確な食周期Tを用いれば、ある一つの食が起こった後にn回目の食が起こる時刻はnT時間後であると正確に予測できます。
ところが、その予想時刻が時と共に段々ずれてくることが解ったのです。何年にもわたる観測から解ったのは、太陽−地球−木星が一直線に並んだ“衝”の時E1を起点として食の起こる時間を予測すると、地球−太陽−木星が一直線に並ぶ“合”の頃E3の“食”開始時間が予測時間から最も大きくずれました。衛星イオの場合、予測よりも22分(1320秒)も遅れて実際の食が起こったのです。
さらに奇妙なのは地球の位置が木星が衝となる位置E5に近付くにつれて、その遅れは少なくなり、再び“衝”の位置に戻ると、“食”の予測時間の遅れは無くなったのです。
優れた観測者だったカッシーニもこの変動には当然気付いていました。当時、地球も木星も、またその衛星も楕円軌道を描き、その軌道上での速度はケプラーの第二法則(面積速度一定の法則)に従って変化することは解っていました。さらに互いの運動のために生じる互いの距離の変化に伴う引力の変化で生じる公転速度の変化も解っていました。そのため、このような変動が生じることは当然予想されることです。だからこそ運行表の精度を高めることが必要とされ、カッシーニは観測を続けていたのですから。
そういった状況の中で途中から、この観測に協力することになったのがレーマーです。彼は観測を継続しているときこの変動を説明する独創的な考えに思い至ります。
[補足説明]
上記のケプラーの第一、第二法則の発見は1609年であり、第三法則の発見は1619年です。
また、上記の“距離の変化に伴う引力の変化で生じる公転速度の変化”についてですが、文献1.では“天体運動の原動力(premier
mobile)の回転にもむらがある”と記されています。これはニュートンによって惑星の軌道運動が万有引力によって説明される【『プリンキピア』の出版は1687年】よりも前であることを考えると、非常に興味深い記述です。
ただし、この記述がニュートンが発見した天体法則を意味しているのかどうかは解りません。実際、ケプラーはここに引用する様に考えていたようですから、当時の天文学者の間に行き渡っていたのは、おそらくこれに類する考えだったのでしょう。
レーマーは、木星の食が起こる周期が時と共に変動するのは光の速度が有限なためであると気づきました。楕円軌道上を速度を変えながら運行する天体間の関係ですから、食周期の変動には様々な原因が考えられます。様々考えられる中でレーマーの仮説は独創的なもので、この仮説に基づくと食が起こる予想時刻の変化が見事に説明できるのです。
木星の公転半径(7.78×108km)は地球の公転半径(1.50×108km)の約5倍です。またその公転周期は約12年(11.86155年)です。そのため木星との会合周期は約398.88日となります[会合周期の意味と計算法は別稿「古典天文学」4.参照]。
そのため、地球と木星の関係は1.(3)節の図の様になります。この図に於いて地球の位置がE1→E2→E3→E4→E5と変化するときの対応する木星の位置はJ1→J2→J3→J4→J5と成ります。
ここで、簡単化のために木星の衛星の(地球から見た)公転周期が地球時間で20日だと仮定しましょう。また木星との会合周期も切りのいい400日とします。また地球軌道も木星軌道も完全な円軌道と仮定します。木星の回りを衛星が1回転する度に“食”が起こるのですが、その時の地球の位置は下図の様に移動していくことになります。木星の衝から衝までの会合周期400日の間に木星の食は20回起こることになります。
このとき、木星との会合周期400日の間に、地球は地球軌道上を360度×(400日/365日)=394.5度回転することになります。つまり衛星の食周期20日の期間毎に、地球は地球軌道上を
394.5/20=19.726°ずつ回転して行くことに成ります。
一方、木星は会合周期の400日の間に394.5−360=34.5°回転しますので、食周期20日毎に34.5/20=1.726°ずつ回転して行くことになります。
そのため木星が静止した座標系で考えると、衛星の食周期20日毎に地球は木星に対して相対的に
度ずつ進んだ位置に居ることになります。
そのため、木星静止の座標系で互いの位置関係を描くと下図の様になります。
図中の0〜20番の位置が、それぞれ衛星の食が生じた時の地球の木星に対する相対的な位置を示しています。そのとき、木星と地球の間を“食”が生じたという信号が光の速度で到達する時間は34分56秒(E1orE5の位置)から51分34秒(E3の位置)程度掛かりますが、その伝達時間は衛星の公転周期20日に比べると短いので、上記の0〜20番の位置は、地球上の観測者が食が生じたという信号を受け取った時の位置と見なしても良いでしょう。
前節の図に於いて、例えばi番目の食が起こったことを観測する地球の位置は、i−1番目の食を観測した地球の位置に比較して距離di だけ木星より遠ざかっていることに注意して下さい。つまりi番目の衛星食が起こる時刻は、i−1番目の木星食が起こった時間に衛星の公転周期Tを加えたものではなく、さらに距離di だけ光が進むのに要する時間だけ経った時間となります。
以下同様に、地球がE1からE3に移動する間地球は木星から遠ざかり続けていますので、衛星の食が起こる時間は遅れ続けてゆきます。その遅れの合計値は結局光が距離 d1+d2+・・・+d10=地球公転軌道の直径2R だけ進むのに要する時間となります。それはとりもなおさず、前述E3とE1に於ける到達時間の差である51分34秒−34分56秒=16分38秒です。
地球がE3からE4に向かって移動するときには、地球は次第に木星に近付いて行きますから、上記の事情の逆のことが起こります。衛星食の起こる時間の遅れは次第に減少してゆきます。そうして地球がE5に到達したときに起こる食の時刻は、衛星の公転周期から予想計算される時刻に正確に一致します。
これが、レーマーの気付いたことです。
ここは解りにくいところですからグラフの上でもう一度説明しましょう。
上図の中の青色部分の和は、光速度をc、地球の公転半径をRとすると
となる。
一方、赤色部部の和は遅れが減少してくる部分ですが、同様に
となる。
いずれにしても、地球の公転軌道の直径 2R を時間的遅れの最大値 ΣΔti で割れば光の速度が求まることになる。
実際にレーマーが光速度を求めた衛星イオの観測データについて説明します。イオはガリレオが発見した4つの衛星(イオ、ユーロパ、ガニメデ、カリスト)の中で最も木星に近い軌道を回るものです。これは離心率0.0041のほぼ真円の軌道を描くことが今日解っていますので、ここで議論している目的には特に適したものでした。その(地球から見た)平均公転周期は1.7698日=42時間28.6分程度です。このことに付いては[補足説明1]を参照して下さい。いずれにしてもこれは1.(3)で注意したように、当時においても正確に求まったと思われます。
そのため地球がE1→E2→E3→E4→E5と移動する期間では399日÷1.7698日≒約225回の食が起こります。その半分のE1→E2→E3まで移動する期間では(399日/2)÷1.7698日=112.7回≒約113回の食現象が起こることになります。そのため前節のグラフを衛星イオの場合について描いてみると
のようになります。
[補足説明1]
恒星空間に対するイオの公転周期は1.7691日=42時間27.6分≒152856秒程度ということですから、地球から見たイオの公転周期はそれよりも約65秒程度長くなります。
それは、地球から見た木星はイオが225回公転する間に地球から見て約34.5度移動しますから、イオは一公転毎に34.5°÷225=0.153°余分に回転しないと地球から見た食は起こらないからです。もちろん地球も公転して位置を変えますのでその角度は季節により変動しますが平均的にはその程度の増分があると見なしても良いでしょう。
そのため地球から見たイオの平均公転周期は恒星空間に対する公転周期より約152856秒×(0.153/360)≒65秒程度長くなるはずです。
このとき、地球がE2の位置に居るときのイオの見かけの公転周期は平均公転周期に対して約15秒程度長くなります。なぜなら、地球の公転速度は29.8km/sですから、E2の位置に於ける地球は、イオの公転周期の42.5時間の間に、木星から約29.8×103m/s×42.5×3600s=45.6×108m程度遠ざかります。そのため、その距離を光が伝播するのに約45.6×108m÷3.0×108m/s=15sだけ余分に必要としますので、見かけの公転周期もそれだけ長くなるからです。また、地球がE4の位置に居るときには約15秒程度短くなります。
しかし、レーマーがこの変分を実際に観測できていたとは思われません。なぜなら、文献1.の何処にもこの変分についての記述が無いからです。おそらく当時の時計の計時精度と当時の望遠鏡の観測精度では難しかったのでしょう。
1周期毎の時間の変化を観測することはできなかったが、前節(2)で述べたように、E1→E2→E3までに積算する遅れの総量 ΣΔti は観測できます。
もちろん、観測の途中には雨の日や曇りの日もあるだろうし、また木星が太陽の方向にあれば観測できません。しかし食の周期はほぼ一定間隔で起こりますから、途中観測できない日があっても、今観測している“食”が起点の日から数えて何回目の“食”であるのかは正確に解ります。だからその回数番目の食が起こる予測時刻は計算できます。だから予測時刻と実際に食が起こった時刻との差であるΣΔti は観測できたのです。
レーマーは文献1.の中で“衝”E1を起点として113回目E3に於けるトータルの時間的な遅れはΣΔti=22分であると報告しています。実は、文献1.の中のこの部分の記述は曖昧で“22の割合で起こる”と記されているだけです。そのため、この22が時間の22分を意味するのかどうかはハッキリしません。
しかし、続きの文章中で、地球が木星に最接近(つまり“衝”の位置)した8月を起点として、イオの平均公転周期から三ヶ月後の11月9日の食の起こる時間を予想してみたところ、“イオはその予想時間よりも10分遅れて食を起こした”と記されています。この三ヶ月の積算の遅れから上記の113回目までの積算の遅れを計算すると約22分となります。そのため、文中の“22の割合で起こる”の22は22分のことであろうと科学史家は解釈しています。
ここで、レーマーの観測値 ΣΔti=22分=22×60=1320秒 を利用し、地球−太陽間距離として1673年にカッシーニが求めていた値 1億3800万km=1.38×1011m を用いると、光速度cは
となります。
ちなみに、今日の正確な観測によると ΣΔti=16分38秒=16×60+38=998秒 であり、地球−太陽間距離は 1億5千万km=1.50×1011m ですから、光速度cは
となります。
これと比較するとレーマーの得た値はかなり誤差があることになります。しかし、当時の観測技術を考慮するとまずまずの値ではないでしょうか。いずれにしても、史上初めて光が有限な速度で伝わることを明らかにし、その具体的な値を得たことは画期的な業績です。
このページを作るに当たって参考にした文献を挙げておきます。