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文化祭でのクラス指導の一例
(ポリエチレンフィルムを用いたゴジラ制作と模擬店フライドポテト)
 
はじめに
 
 文化祭のクラス参加の催しを生徒に考えさせそれを旨く実施するように導くのは、教師にとって面倒なことであり若い頃はけっこう苦になることでした。しかし最近はその過程で生徒が見せる感情表現や、互いの関係の中で彩なす様々な行動を観察するのがとても面白くなりました。こういった状況の中でこそ生徒それぞれの本質が良く現れ、長所・短所や人間性が現れる。教育の実践の場としてとても面白いし、これこそ教育の原点ではないでしょうか。
 毎度なかなかうまく行かなかないのですが、教師も経験を積むと旨く行かないから教育的に失敗だったとは思わなくなる。旨く行かなくてもそれはそれで良いのではないか、旨く行かないからこそ、その中から生徒は多くの事柄を学ぶだろうという気がしてきました。クラスががたがたになっても、その中で生徒同士学ぶことはできるし、その中にこそ学ぶべき事があると思います。そういう状態こそ教育にとって面白い状態であり、教師はこの辺の指導を楽しんでも良いのではないでしょうか。
 
 結局は人間関係の調整なのですが、その調整法を学び、その調整のなんたるかを学ぶ。普段の学習は教師が教壇の上から一方的に諭し教え、それを教室に並んで一方的に学び習得し、その理解の成果を試される。その中には生徒間の働きかけ、影響の及ぼし合いはない。しかし文化祭は違います。全てが生徒間の役割分担、依頼関係、奉仕、リードで事は進んでいく。そしてその成果は生徒の評価で決まるし生徒どうしの人物評価も生まれてくる。文化祭のように生徒主動でやらねばならない行事は、人間関係の調整法を学ぶ最適の方法ではないでしょうか。
 良く文化祭の催しを皆で作り上げ成功させることでクラスがまとまり、一致団結して充実した満足感を得ることができると言いますが、現実はそんなに旨くいきません。歳取った大人でも、全てに達観して良いことは良いと素直に認め、他人の長所・短所を理解して各人の能力を正当に評価し、人間関係の調整をして何事かを成し遂げるのは難しいことです。いわんや様々な中学校から進学した生徒が混じっており、互いの人柄・能力が良く把握できていない1年生のこの時期、互いの長所・短所を認め合って協力して一致団結するのはなかなか困難です。彼らはこの時期まだ自分の能力を過信しており自分自身に甘い所がある。だからなかなか他人の能力を認められないし、自分の能力を発揮できない。そのため、うまく協力できず、ぎくしゃくし、互いに憤ったり、喧嘩したり、粋がったり、落ち込んだりします。そして参加しきれずに逃避する生徒も多い。
 そのとき教師は発想を変えて旨く行かなくても良いのだと思わなければならない。旨く行かなくても生徒はその中から多くの事を学ぶだろう。それが勉強だし、それこそが人生なのだから旨く行かないことを楽しむべし。そうはいってもゴジラの企画は成功したのだし評判も上々だったのだから、彼らは少しは誇らしい気持ちになれただろうし、何かをやった充実感をもつことはできただろう。以下ある1年クラスの文化祭参加の一例を報告します。
 
 
活動の実際
 
 どの学校もクラスで文化祭実行委員を決め、クラスで何をするかを決めるクラス討議から準備が始まります。文化祭実行委員と言うのはクラス内の色々な意見の調整と生徒会との連絡係り的な仕事だと思う。基本的には調整能力さえあれば良く、特に企画力とか指導力とかが必要とされる仕事ではない。それで1年生ということで中学校の内申書を参考に学年の始めに選んでおいたのですが、中学校での文化祭の実行形式と、高校での実行形式は少し違うので、調整能力について少し荷が重かったようだ。中学校では様々なレベルの生徒が階層的に存在し、教師指導型で行事が実施されるが、高校では同じ様なレベルだが、気質が様々違う生徒が混じりあう中で、生徒主動で行事が計画される。そのなかでの調整能力という点では、中学校とは少し違った能力を必要とするようである。
 文化祭実行委員は委員としての仕事があるので、実際のクラスの催しや模擬店の責任者は違う者が担った方がよい。こちらの責任者は文化祭でのクラス企画をどうするかクラス討議する中で決まってくる形にした方が良いし、実施の形態が煮詰まってくる中で自然に決まってくるように思う。
 だから文化祭実行委員の仕事はクラス討議を円滑に進め、責任者が自然に決まってくるようにその場を持っていく粘り強さと調整能力があれば良いし、それが最も必要とされる。だがそのねばり強さと調整能力を備えた人材を得るのがなかなか難しい。えてしてクラスの討議が盛り上がらず、司会役のかれらは投げやりな司会になり、何事も適当に多数決、くじ引きという形で事を決めてその場を済ませようとする形に流れやすい。
 
 クラスで何をするかは各校の教室配置や会場配置と文化祭の実施形態とに大きく影響される。我が校の文化祭は1日目の体育館での全体行事と二日目の体育館横の昇降口前広場の模擬店(全てのクラスの模擬店がそこに集中する)とそれと平行しての各クラスの自教室での催し、展示が平行して行われる。このさい模擬店街が人出の集中するメイン会場になり、教室棟は人通りが少なくそこでの催しに観客を呼び込むのがなかなか難しいという面がある。だから教室での行事は展示か、迷路、お化け屋敷のようなものになり、教室で何かイベントを企画して実施するというのは少し難しくなる。イベントを企画するとしたら1日目の体育館での全体行事の中に組み込んでもらうのが良いのだが、9月初旬のこの時期体育館で暗幕を引き照明の下で何かを実施するのはその暑さのためになかなか難しく生徒の集中力が続かない。暗幕の中での照明が使えないとなると生徒の未熟な演技に注意力を維持するのは難しい。イベントを盛り上げるのに音楽と暗がりの元での照明効果は不可欠であり、これが無いとかなり制約を受ける。
 
 クラス討議を旨く導く鍵は、クラスの一人一人がこれなら旨くやれそうだと感じる具体的な案を生み出すことだがそれが難しい。そこで担任の助言が必要になるのだが、今時の生徒は昔式のオーソドックスな案には乗ってこない。
 具体的なL.H.R.での討議に入る前に掃除時間などを利用して何人かの生徒にいくつかの案をそれとなく投げかけてみて反応を探ってみたが、なかなかこれと行った感じがつかめない。クラスで何かをやったと言う気持ちになれるには、せめて夏休みの後半の1週間なり十日なり午後の時間を準備に費やしてやれるようなものが良い。いくつかの案を投げかけてみたが反応は今一つであった。ポリエチレンフィルムを使った今回の案もその内の一つである。
 
 結局1学期中に案は決まらず、夏休み中の8月17日に全員学校に集まって議論することになった。夏休み中に出校することについては1年生の段階では教師が段取りをつけてやる必要があるかもしれない。
 17日に集まったのはクラスの半数程度で男女半々であった。特に司会を決めなかったのだが議論が盛り上がらない。女子の中の何人かのグループで一つの案が具体化してはいたのだが、彼女たちにそれを具体的な形に造りあげるまでの構成力が無く、男子生徒に働きかけても彼らの反応は今一つでした。意見がまとまらないので担任のゴジラ制作案も投げかけておいたがそれにたいする反応も今一つ。結局その日はクラスの連絡網でもう一度皆に連絡して21日に2回目の集まりをすることを決めただけで解散。
 8月21日は集まった人員の顔ぶれに少し入れ替えがあったが前回よりも人数が減る。具体案を持っている女子グループがその案の説明を試みるが旨く行かない。女子の中にもその案に反対するグループもいるようだし女子の中もいくつかのグループに分かれている。男子生徒も自分の問題としてとらえきれておらず意見が出ない。何かを造る為には具体的に何を材料にしどの様な構造にしてどの様な人員配置、日程で造るか構想する能力が必要である。たいていのクラスにはそう言った事が好きな子が2、3人はいるのだがなかなかそういった子が出てこない。結局この日も空中分解して、24日に三回目の会合で決めることになった。
 24日の会合は生徒だけで話し合うから担任は出てこなくて良いと言うので、ほおっておいたのだが結局担任のゴジラ案で行きたいということになった。それならばこちらでやり方を説明するから26日から取りかかろうということを決めて解散。
 結局は担任案になってしまって、ある意味ではガッカリだったし、ある意味ではこの企画についての構成はできており見通しも立つので何とかなりそうだとホッとした面もあった。しかし担任の企画力で盛り上がってもしょうがないところで、この辺が最後までクラス内の盛り上がりが今一つだったところでもある。
 結局最初の話し合いが最も大切で、このとき十分時間をとれるかどうかだと思う。企画を議論する段階は互いの様子見である。とくに1年生は互いの人柄・能力が良くわからないし、へたに意見を出すと自分に責任をおしつけられてしまうという畏れから引っ込み思案になる面もある。この段階で自分には関係ないとことと白けてしまって議論に加わらない子が多いのも毎度のことである。でもこの過程でグループが形成され、グループ間の関係が形成されてくる。そして互いの立場・役割も討議の成り行きと共に流動的に変化し観察していて最も面白いところである。
 もちろん企画を出すに当たってはその子に企画力と構成力が無いと難しいのだが、生徒各自が自分で互いの能力・特質を見極め各自の居場所を見つけるのを待つことも必要だ。教師はその辺の才能を持つ子供を発掘たり、助言して討議の動きを助けてやらねばならない面もあるが、基本的には生徒の中に自発的に人間関係が構築されるのを待つのが得策だと思う。教師にはその忍耐力が必要のようだ。
 
 結局教師の企画に従った作業が26日から31日までの午後を当てておこなわれた。その過程で活動に積極的に関わり、指導力を発揮できる者もでてきたし、黙々と作業をこなしその人柄を認められる者も出てきた。作業の中でそれぞれ工夫が生まれ企画を自分たちのものとして捕らえられるようになった生徒も出てきた。また単調な作業に飽きてしまって努力が続かない子もいる。また運動部の活動が重なり出てこれない子や、運動部の練習で疲れて参加が続かない子もいる。31日は胴体部が完成して成功の見通しがたち、最も感動できる段階だったのに最も参加生徒が減少した中だるみの時期になったのは残念だ。しかしこの辺のパターンは毎度のことである。
 今回の企画では、その辺の能力を持っていそうな子に何度か水を向けて参加に取り込もうとしたが、そのグループが性格的にのってこなかった。参加できる機会は幾度かあったのだが、自分たちはどうでもよいやという気持ちから文化祭を自分の問題として捕らえ切れていなかったようだ。
 2学期が始まってからは授業・体育祭と平行しての準備だから実質の活動は難しい。そのためクラスでやる模擬店の話し合いと準備に当てることにした。しかし、これがまたなかなか難しい。模擬店も初めてのことで何をして良いかわからいない。とくに最近の子供は家で家事手伝いや色々な作業を手伝うことも無いので、本当に単純な事に気がつかない。しかしその辺に一つ一つ気付きながら、また失敗しながら模擬店をするのも勉強かもしれない。その過程で積極的な女子グループもできたが、少し空回りして他の協力的でないグループといろいろな感情的な対立や行き違いが生じた。
 しかし模擬店の方は、最初担任もいくつか助言はしたが、そのほとんどを自分たちで自主的に試行錯誤しながら、仲間内で喧嘩しながらも立派にやり遂げたのだからほめてやって良い。
 そして文化祭直前の数日はかなりの生徒が遅くまで残って何とか仲良く準備に当たって無事やり終える事ができた。その過程で本当に一生懸命やった子供もいた。ただ三分の一近くの生徒は最後まで参加しきれずに無関心であったのは残念だが、彼らも今年の経験を生かして来年以後は頑張ってくれるものと思う。
 
具体的な方法
 
 ゴジラの型紙として公文出版の子供向けの画用紙を切り抜いて造る恐竜シリーズ「くもんのペーパークラフト ティラノサウルス」を利用した。頭部と手足の先を少し改良して、それをコピー機で透明シートにコピーする。このシートをオーバーヘッドプロジェクターで15倍に拡大して、壁に垂らしたポリエチレンシート(農業用の黒マルチ 厚さ2.25m×100m   円)に映しだす。型を白のペイントマーカーで写し取り、ハサミで切り出す。それをセロテープ( mm幅)で張り合わせて行く。両足と胴体頭部は独立した袋状にしてそれを脚下部と尾の先端部から吹き込む2台の家庭用扇風機による風圧で膨らまし立ち上がらせる手法である。
 
終わりに
 
 結局文化祭のクラス企画一つを実行するにしても様々なノウハウや、様々な能力を持った人材が必要とされる。そしてそれぞれの子供達が持つ特質が生かされる場が必ずある。いかにして、その場を各自で見つけだし、それに参加していけるかだと思う。自分で乗り出す必要もあれば担任が旨く助けてやることもある。
 文化祭のクラス展示や、模擬店の準備をしているときに色々意見の衝突があってぎくしゃくしていた人間関係も、行事が終わり普段の授業に戻ると、元の様に穏やかな関係に戻りまた仲良くできるようになった。だから、このたびの経験が、次にまたこういった行事で角突き合わせなければならなくなった時に生きてくるだろう。次の機会には各自がもっと上手に対処できるだろう。
 今までの経験からいって、3年生くらいになると互いの良いところを素直に認め、自分の苦手とするところは他の優れた人にまかせ、逆に自分が優れていると思えるところは自分を主張して頑張れるようになる。1年生よりも2年生、2年生よりも3年生と学年を重ねるに従って人間関係の調整が旨くなる。やはり生徒は成長し学習している。だから旨く行かなくても良いのだと思います。旨く行かない中から各生徒は色々なことを学んでいるのですから。
 アメリカインディアンの長老の言葉ですが「楽しさばかり望むと、孤独になる。喜びばかり望むと、不幸になる。本当に楽しさを分かち合いたいなら、苦しさも、悲しさも、受け入れることだ。苦しいことなくして、喜びはない。いいことからいいことはうまれない。喜びも、苦しみも、悲しみも、憤りもふくんだ現実こそが人生なのだから。」

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